《森 光年》
大阪の中心街のど真ん中にある緑いっぱいの公園、靭(うつぼ)公園のすぐ北側にオープンしたばかりのショコラトリー『Les Petites Papillotes(レ・プティット・パピヨット)』、再訪してきました(→参照)。 フランス人のシェフと日本人の奥様によるこのチョコレート店、前回はオープンしてまだ数日ということで終始緊張の面持ちだったマダムも今回は幾分リラックスしておられたのか自然な笑顔が見られてこちらも一安心。 こちらのケーキやチョコレートはほんとに美味しくてお勧めです。もちろんショコラショーも。 大阪の甘い物好きのあいだではじわじわ噂は広がっているものの、まだまだ認知度は低い様子でもったいないですね。大阪の洋菓子事情も近年かなりよくなってきたとはいえ、本格的なフランスの味が楽しめるお店はまだまだ多いとはいえませんから(ウィーン菓子のお店となるとさらに少ないのが不満)。 まあ、靭公園のすぐ近くには『SAVVY』や『Richer』『Meets』などの近畿ではメジャーなローカル情報誌を発刊している京阪神エルマガジン社があるので、そのうちどれかの雑誌が取りあげて知名度が上がってくれるのではと期待しているんですが(エルマガジン社の雑誌、とくに『Meets』は遠くに取材に行くのが面倒なのかご近所の店をひいきする傾向があるので)。 それまではこうして微力ながら応援したいと思います。 そんなわけで森光年なんですが、ソーシャルゲームが原作の『戦国コレクション』というアニメをたまたま見かけたところ、塚原卜伝や柳生石舟斎、伊東一刀斎などの剣豪たちが登場していて嬉しくなりました。 戦国武将が美少女化して登場するアニメは近年いくつかありましたが、剣豪となると宮本武蔵や柳生十兵衛が関の山、われわれ剣豪ファンからすればメジャーもいいところの卜伝や一刀斎ですらなかなか登場させてもらえないんですよね。 いつか自分でそういうゲームを作ってやろうかと画策していたので、ある意味、先を越された格好です。 卜伝の弟子として足利義輝も登場していましたが、これもなかなか剣豪ファンとしてはテンションの上がるセレクション。 一般には松永弾正に討たれて下克上ブームのさきがけとなった将軍くらいの認識しかないかもしれませんが、じつは剣豪将軍として名高い人だったりもします。 その討ち死にの際の奮戦ぶりたるや「名刀数多抜キ置カレ、取替エ取替エ、切テ出サセ玉イケル。公方ノ御手ニ掛リ玉イテ、切伏セ給ウモノ、幾等ト云ウ数ヲ知ラネバ、敵徒恐レテ、近着クモノナシ」というすさまじさだったそうです。 ちなみに上の一文は戸部新十郎先生の『日本剣豪譚 戦国編』(光文社時代小説文庫)からの引用ですが出典はよくわかりません。 この文では『抜キ置カレ』としか描写されていないものの一般的にはこの場面、義輝が周囲の床にぐるりとぶっ刺した秘蔵の名刀をとっかえひっかえ戦っているように描かれることが多いんですが、よくよく考えるとこのシチュエーション、見覚えがあると思いませんか? そう! 『無限の住人』や『まどかマギカ』等々、あまたの漫画やアニメで描かれてきた、周囲に展開した大量の武器をとっかえひっかえして戦うあれにそっくりなのです。 われわれのいる場所は400年以上前に足利将軍家がすでに通過していたッ! というわけで、すごい人なのです足利義輝。
『戦国セレクション』に話を戻しますが、なんでも同作中では塚原卜伝は活人剣を教えているそうで。
いやいやいや、それなら剛毅な荒武者のイメージのある卜伝より(あくまでイメージです。この時代の剣士の事跡や人柄については伝説の霧に覆われていて不明な点が多いので)剣聖と称される上泉伊勢守のほうが適任でしょうに。伊勢守も足利義輝に剣術を指南したといわれているわけですし。 だいたい、弟子である柳生石舟斎(十兵衛の祖父。上泉伊勢守から新陰流を学び、柳生新陰流を創始する)が登場していて師匠がスルーされるなんて納得いかない。やっぱり一般的な知名度の差なんですかねえ。卜伝と上泉伊勢守だったらがぜん伊勢守派の私としては悲しいかぎり。 とはいえ、戸部新十郎先生の描くあまりにもかっこいい一刀斎に接して以来、一番好きな剣豪は伊東一刀斎(のちに北辰一刀流などを生む一刀流の創始者)なんですが。 『戦国コレクション』における一刀斎の空気読めない感じはなかなか雰囲気でてると思いました。 この時代の剣士の例に漏れず、一刀斎もその人となりはよくわかっていません。生涯これといった大名に仕えず、一介の剣士としてふらふらしていたらしいので事跡がはっきりしないのも無理からぬことです。 ですが、一刀斎の弟子である小野忠明などは師の推挙によって徳川将軍家の指南役となり、おなじく指南役であった柳生宗矩が相手は将軍ということで手加減して指導したのに対し、遠慮仮借なく稽古をつけたせいで将軍から敬遠されたという空気の読めなすぎる男だったといいます。 あるときなどは柳生宗矩の屋敷を訪れ、昨今では剣士といえど人を斬る機会などめったにないので、柳生家の息子さんたちにも死罪の決まっている罪人に剣を持たせて本気の殺し合いをさせたらいい稽古になりますよ、などという物騒極まりないアドバイスをして宗矩に完全スルーされたというすさまじさ。 弟子の忠明がそうなら師匠の一刀斎もさぞ融通の利かない武辺者だったのではないでしょうか。 そんなこんなで柳生家は徳川将軍家に重用されて大名格の身分にまでのぼりつめ、一方、小野忠明の一刀流(小野派一刀流といいます)は将軍家の指南役としてはいささか影の薄い存在になってしまいます。 しかしながら、動乱の幕末期になると小野派一刀流から派生した流派から幾多の傑物たちが輩出されたわけで、歴史というのは面白いものです。 |
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